こらむ 127  デジタル表現の方法 

デジタル絵画の表現について全般的に考えるにしても、多くの人がどのように表現しているかはあまりにも知らなすぎる。また一般的にデジタル技法を指導している専門学校等の指導法はその目的が違うのでほとんど参考にはならない。主に漫画やアニメの技術指導であって多くの場合創造的活動やファインアートにおける表現について重要な部分が欠落しているのである。それらは一切無視して全体のカリキュラムの構成を考えるのはかなり無謀な話である。ここでは「自分がこうやっています」という自分の制作を振り返り、整理するところから始めて、何度か精査して組み立てていくことにする

1.資料収集とその整理

制作のための資料は、これまでの作家が考え、取材、収集していた方法やその質、そしてそれらの意味がかなり異なったものになる。「静物画」「風景画」「人物画」など我々が「これが絵画だ」などの画題の多くは絵画の歴史から見れば新参者であり、その発生経過を調べるのも面白いがここでは主旨が違う本題にもどる。静物画を描こうとすれば、品物、机、布など自分の描きたいものを用意する。風景画を描こうとすれば描きたいところを探しそこへ出掛けて描くことになる。このような作業と比較してデジタル表現どのように違うかを考察してみると、制作の中での全体ガ的な構造の違いや、制作の意味の相違点みえてくる。
私にとって「風景画」とか「静物画」とかの分類もまったく意味がない。資料収集の段階ではそのような目的意識はほとんどない。私は旅行好きだから、沢山の旅行をし、そこで多くのスライド写真を撮っている。これらは制作意図ななどなく、記録的な意味と、興味ひかれるものに何気なく撮影されている。私は自然より都会が好きなので、毎日のように街を徘徊し、写真を撮り続けている。この時点では「これを作品ににしよう」という意図はなく「興味ひかれるものにシャッターを切る」という極めて感覚的な行為である。これらは現在ではこれらも結果的には貴重な資料となっている。
家で咲く花も、前は記録的に写真は撮っていた。しかし「月下美人」との出会いから、様々な花が作品素材となっている。今年は前の家から薔薇を頂き、その隣の家から百合を頂き、とこれらも自然な人の付き合いの中で制作資料が舞込んでくる。花が描きたいから花を栽培したり、購入したり、スケッチに出掛けるのとは根本的に違っている。生活の中で「あ、これも作品になる」ということでの選択である。 私たちの生活の中で多くの印刷物が氾濫している。これらも資料の部品として様々な活用が考えられる。そのまま使えば問題だが、断片的な扱いで活用出来る資料ではある。
同じようなものとして、ショウウインドーや他人の作品を資料として活用制作している。これらはその当事者への了解を得るなどの事前の配慮と手続きが必要である。それに「私の完成作品」は「使わして頂いた資料」を出発点としてはいるが、そのコピーではないということが主張出来るようなものでなければならない。音楽における「××の主題による変奏曲」のようなものである。
その特殊な例として私は「片岡昌氏とのコラボレーション」を体験している。彼の立体作品を写真撮影しそれをいろいろな背景の写真と合成するという私のデジタル絵画作品と彼の立体作品とを展示する2人展を何度か行なってきた。
また「過去の自分の作品も資料になる」という試みを昨年2009年のSPACE展で発表している。さらに今後は「データ(資料)のキャッチボール」として作家間で作品のやり取りをして作品展開を繰り返していくという状況も考えている。これはもはや資料も作品も区別のつかない状況である。
2010.7.8

Comments are closed.