こらむ 125  デジタル表現の核心

デジタル表現の特質を考える時に、「写真」や「映画」について考え、その類似性や相違点などを検討してみると、今まであやふやであったものが、霧が晴れるようにすっきりと、明快になることもある。そのような視点で「写真」や「映画」とデジタル表現を考えてみる。今日画廊回りをしていて出会った「写真」による作品展ではまたしても写真のリアリズム病である。水面を写したものだが、画面はかなり抽象的な表現になっている。しかし何か中途半端な感じが残る。作者は「画像としてとらえたものは一切加工をしていない」と言い、そのために様々な努力をしているという。なんのために?加工しない、自然のままであるといいたいらしい。写真に写すことはもはや自然ではなく、人間の表現であることの重要さが解っていない。リアリテ(存在感)を保たせるために自然感を活用するのは結構だが、「自然を写して、加工しない」などまったく意味のないこだわりであり、自然をありのまま写すことは目的ではない。写真は写真であり自然ではない。写真は人間の表現であり自然ではない。フィルム画像を加工しないからと言って、どうあがいても自然ではない。アートは人間の表現であり、画廊に展示されるものは全て自然ではない。自然を超越した人間の表現でなければならない。写真はすでに加工物であり、決して自然などにへつらってはならないのである。私は写真画像を加工するなどという生易しい考えではなく、まずどれだけ破壊出来るか、から出発したいとら考えている。元の写真画像をどのように扱うにしろ、最終的に再編集したものが私の作品となる。私はカメラの画像(これすら私の意思で切り取った加工品)と闘って、元の画像からどれだけ距離をおいても、現実感が失われないかという尺度で制作している場合もある。私にとってカメラ画像は出発点であり、制作の動機であり、刺激物である。その考えを映画やテレビの画像と対比して考えてみる。それらは多くの場合複数の分業化された人達の合作となる。しかしそれらの分業の中で解らないことがある。一般的には企画者がいて、脚本家がいて、監督がいて、劇映画であれば俳優がいる。これらの人の名前はいろいろなかたちで目にし、耳で聞く。しかし映像の中で一番重要なのは「編集」の仕事である筈だ。どのような企画であろうと、脚本であろうと、それは作品造りの動機である。カメラマンや監督がどのような素晴らしいカットを撮影しようと、最終的に芸術作品として完成させるのは編集の仕事である。この仕事が以前のフィルムによる時代からデジタルの作業になってますます意味を強め、芸術的分野が飛躍的に増大された筈である。編集の作業のなかで芸術的創造過程が生まれている筈である。本来的にいえば編集は監督の仕事である。それほど重要でありながら、「編集者」という専門家がおり、あまり日の目を見ない(アカデミー賞などではきちんとその分野を設けているようだが)のが現在の社会状況である。私もデジタルの編集ソフトをもち、やがては動く映像に移行しようかなどとも考えているのだが、昔の撮影所の裏側を見聞きしていた人間にとって、デジタルのソフトの凄さは半端ではない。これからは「編集」という仕事が、個人的作家のような視点でとらえることが可能な状況なのである。おそらく、映像制作の現場でも分業の再変成が行なわれければならない。(多分進んだ現場ではそのようなことは現実的になっている)

さて、このようなデジタル表現の状況の中で、今私が行なっている絵画表現の制作活動は、あくまで「全て個人作業」である。しかも映像では中心的には未だに扱ってもらえてない「編集」にあたる作業が中心である。デジタルといえば筋が通った一本道のように誤解されがちだが、この作業は基本的に「行ったり来たり」の迷い道なのである。これが一番のデジタル表現の一番の重要で、優れた部分で、きわめて人間的部分なのである。すべて「やってみて、判断する」「だめならやめる」「目の前にある作品になるかも知れない画像から刺激を受けて次への発展をする」などが自由自在であることが最大の武器である。この過程を映画やテレビの画像制作では「編集」が受け持っている。デジタル絵画においては、画像の加工の成れの果てが我々の作品であり、映画では、沢山の画像の資料(カット)を切ったはったで視聴者が見る画像を造りだするのが「編集者」である。これが創造活動の核心であることを強く強く主張しておきたい。      2010.7.6

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