こらむ 124  デジタル表現の基礎工事

これまで「表現内容」というかテーマをなかなか持ち得ないことを言い訳がましく述べてきたが、制作についての最大のエネルギー源は「表現しなければならない」という切実感であろう。それ無しに制作していることの罪悪感がさらに足を引っ張る。このような状態で毎日の制作が進められ、作品の山が築かれる。コンピュータのディスプレーに表出される画像に対応する形で自分と向き合う。その画像に対しての判断や、次の技法への選択、変化した画像への判断、という行為の積み重ねの中に、自分が表出されると期待しているのだが、自信はない。保証はない。しかしこれらの行為を作品制作と考えるからこのような不安感が湧出してくる。これをデッザンとかエスキースと考え直すとどうだろう。一般的にデッザンとかエスキースをやるのにテーマがないなどとはあまり悩まない。これまでやってきたことは「技法の修練」と「感覚のトレーニング」にはなっている。

さらにこれらを元にして、さらにワンランクアップ上の作品を作るための資料造りという視点でとらえる。大きな仕事をするための部品的な素材や制作の発端になるような資料を作っていると考えるのである。また画像の加工法についての技術の定着ということも大切な仕事である。例えばフォトショップというソフトはなかなかの優れものなので、ついそれに溺れてしまう危険がある。私の知り合いの作家にも写真画像にソラリゼーションをかけただけの画像で『自分の作品』として発表している人がいる。これでは作品のよしあしの前に白けてしまう。画家の仕事は魅力的な画像を作り出すことだけでは十分ではない。その前に「誰にもできない画像」という言葉が入るべきで、コンピュータでその命令をすれば誰でも出来るような画像で作家の仕事として発表すべきではない。そのような意味で現在のソフトの可能性を活用しながら、自分の独自な表現法を造り上げることがデジタルアーティストとして大切な仕事であると考えているのである。その制作の過程では「思いがけない画像」に良く出会う。しかしこの偶然と思えるものは、実はコンピュータにとってはきっちりとした計算の結果であり「知らぬは作者ばかりなり」なのである。偶然に出来た画像は、繰り返しのトレーニング的な操作により必然的な表現になる。その多くの操作の詰み重ねの中に「独自の表現」を生み出す可能性があるのである。このような表現法の探索という意味にとらえ直して、自分のこれまでの仕事を整理し直してみようと思う。つまり「表現のための基礎工事」をやってきたということであり、表現のための基礎修練なのである。「週刊ギャラリー」の制作の行為と作品の提示は制作作品の展示ではなく制作現場のリポートということと捉えるべきだと考えている。作者側として誠に勝手な主旨変更ではあるが、これも「デジタルアート実験室」の現実的なできごとなのである。「さらなる飛躍をするため」などと言い訳をしながら、あと50点での1000点到達目標まで頑張ることにする。                      2010.7.5

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