こらむ 122  私は「表現内容」を求めるか

結局のところ、社会的な大きな動きになれば、物事が変質し、訳の解らない人達の考えが介入し、信用出来ないものになる。政治的な、宗教的な、経済的な、様々な動きに背をむけて、美術の大きな運動にも参加せず、こじんまりと、でも必死に生きてきた。時々考える。「おれは一匹のかいこ、ただ一個だけの繭を作りあげればいい」と。これは負け惜しみのセリフか。自分の考えに忠実に生きようとすれば、自分の表現したいものを忠実に制作し続けるようとするには、自分のテリトリーをきちんと守って生きていくしかない。身の丈一個分の「繭」を身をくねらしながら造りあげる一生。間もなくやってくる終焉を控え、やや焦りながらも「自分のやれること」「自分のやるべきこと」「自分のやりたいこと」を着実に1日1日こなしていくしかない。人生も小さければ、作品の中身も小さい。せっせ、せっせと小さな仕事をし続けている。世の中の情勢など関係なく、ただひたすら糸を吐く。そこには一枚の布のその一部の糸になればいい、という悟りが必要である。生臭い私にとって納得ができるか。きっとじたばたする。繭など喰いちぎって外界に飛び立とうとするかも知れない。醜い蛾が飛び立ったところで行く末は人知れず死んでいくしかない。それは解っていて、やはり飛び立とうとするか。私にとって集大成としての「繭喰いちぎり作戦」をそろそろ計画し始めてもいいかも知れない。1000点の制作目標は後数日後に達成する。これまで制作してきた作品も一本の糸につなげて、透き通るような繭ができたとして、それが何なのだとも思う。「私の表現しなければならない内容」を必死に求め、少し大きめな計画を立て、挑戦するのもいいかも知れない。このような考えを持ったことがない初体験なので予想もつかない。不安もあり、不可能かも知れない。「慣れないことをするもんじゃない」と始めから茶化す自分がいる。ともあれ1週間後にはこの問題に突入する。心の準備をし、資料の準備をしなければと考え始めている。  2010.7.3

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