こらむ 121  私の「表現内容」との関わり

私にとって「表現すること」と「表現内容」との関わり方はどのようなものであったか、過去を振り返ってみる。本格的に制作を始めた学生時代、今から50年以上も前、私は絵具まみれでアクションペインティングにのめり込んでいた。経済的に独立し、生活費の全てをアルバイトで稼ぎ出す生活であり、その仕事の体験も様々あった。華やかであった松竹大船撮影所での夜中に脚本を書き写す仕事や、撮影のさまざまなエキストラであったり米軍の横須賀基地での軍艦上の荷物運搬であったり、横浜港の港内停泊中の船舶警備であったり、結構ドラマチックな状況に生活していたはずなのに、作品制作にはまったく影を落としていない。衆議院選挙で共産党の立候補者の秘書のような仕事をしていた友人、当時まだ珍しかったソ連のモスクワまで赤く染まりにいった学友など、政治にまつわる空気も流れていた筈なのに、私の制作は別世界で行なわれたいたようである。しばらくして「安保闘争」があったり「新宿騒擾事件」があり、世の中騒然としていた時、その現場には出掛けているが、参加は決してしない。何事が起きているか観察し、感じてはいるが、制作には全く影響がなく、当時はギャラリーの部屋中作品とするライトアートに興じていた。新宿のギャラリー前をデモ隊が行き、その両側を機動隊がゆっくりと進む様を冷ややかに楽しんでいた。デモ隊の流れの果てが会場にやって来て光チカチカの作品の中で馬鹿騒ぎを一緒にやったこともあったが、エネルギーは一緒になっても私には政治は全く別世界のことであった。私にとって関心のあったのは「会場に来た人を私の作品で包み込み、光と音で揺さぶりかける」ことであり、世の中の矛盾をデモで解決しようなどという発想はまったくなかった。「成田空港反対闘争」の時も身近に知人がいて、ちょっとした怪我をしてきた時も「青春の浪費」「日本経済の大浪費」と冷ややかで、その当時の映像作品には1点の記録もない。つまり私は、社会のうねりのようなもの、様々な出来事は積極的に排除して、制作を独立した世界で続けてきたのである。少年時代「戦争」「終戦」の体験によって受けた心の傷は「世の中の出来事丸ごと信用出来ない病」として残っているようである。新聞を見ても、テレビを見ても「嘘ばっかり」と感じてしまう病である。これは表現の内容にはならない。どうどうと闘うならまだしも、斜目でチラリと冷ややかに、では精々1コマ漫画の世界である。その上現在の日本は平和である。残念ながら私は幸せである。不幸にも小さな小さな幸せに包まれ何不自由なく生きている。しかし無理矢理にも表現すべき内容を考えなくてはならない。私の人生を反省してみて「これが初体験になる遅まきの表現内容探し」を始めるかどうか、まだ迷っている。      2010.7.02

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