こらむ 120  表現内容・表現様式

作家にとって「何を表現するか」という問題は重要なことなのだろう。しかし現在の私にとって、それほど切実な問題とは感じていない。例えば「戦争反対」という運動がある。私の身近でも「ノー・ワー」などという展覧会が催される。私は「戦争反対」ではあるが、そのような企画には決してのらない。そのような考え方には賛成しても、運動には参加しない。そのような動きを信用していないのである。信用するに値する人達も少なくない。しかし運動全体の中で信用出来ない部分が確実にある。例えば「共産主義」という考え方があり、「日本共産党」という政党がある。無責任な立場で勝手なことを発言しているが、一つとして成功例のない共産主義国家と日本共産党とはどのような関係にあるのかについての説明はない。近くの北朝鮮のわがままについてのなんら行動はない。こんな人達が後ろから糸ひく運度になど、手を貸す訳にはいかない。様々な宗教もそうである。現在の戦争の火種は全て宗教がらみである。人を救うのが宗教の仕事なのに意見が違う、考え方が違うと言うことで、利害関係にまで発展、そのあげくのテロや戦争で人殺しをやる。このような様々な運動に純粋性など求めることが間違いだと諦めている人生の中で「主義主張」などは信用していないのである。今の生活の中で、自由に、自分の感覚だけを頼りに表現する内容を拾い集める毎日である。これはある意味で幸せであり、ある意味では不幸な状態でもある。振り払わなければ生きていけないような危機的な状況でもない。自分がほっつき歩いて、感じて、ようやくテーマのようなものに当たるという「ぬるま湯」状態にある。そこで現在さしあたってやっていることは「画面操作」の中からの「テーマ」探しであったり、制作を進める中でのイメージ決定であったり、そして少しずつ「表現形式」がはっきりしてくるのである。そこでの表現のスタイルは、沢山の私の頭の中にある平等な価値観のもとに整理された資料棚から、感覚的に選択される。そのイメージ把握や表現様式の決定なども、私の重要表現経過ではあるが、それらは瞬時に決定される。しかしそこにはデジタル表現の有効な機能がある。「やってみて気にいらなければボツ」「迷っていれば保存」「お気に入りならGO!」である。目前にある画面で判断すれば良い。頭の中でかんがえ、スケッチ下書きをして、進めるのではなく、画面がフルカラーで提示されているのを判断するのである。そのような制作過程と判断の積み重ねの結果が、「表現様式」として形成されていく。ここでも「このように表現いたい」という計画ではなく、表現していく過程の中で次第に明確になっていくものである。これは様々な表現を経験し、過去の人々が作り上げた様々な様式を知識として蓄積した人間の、自信たっぷりのいい加減さなのである。しかしこれが最高の方法であると考えている訳でもない。とりあえずこれでやってみようか、という世界である。そのうちの今やっていることを集大成し、今やっている画面を部品として、超大作でも作ろうかなどと言い出すかも知れない。                              2010.7.1

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