こらむ 116  創造性という視点で  2

音楽における作曲家と演奏家との間にどのような創造的関係があるのだろうか。楽譜はアートなのか。脚本はアートなのか。どのようにしてアートとして主張出来るのか。楽譜をどのように演奏したらアートとして認められるのか。演劇はどのように演じられれば脚本から離れ演劇として独立できるのか。その時、創造性と言う視点で「脚本」と「上演された演劇そのもの」との関係は?などなど。現代の演奏家が、昔の(例えば江戸時代の)天才の指示通りの演奏をすれば、芸術としてそれで十分と言えるか。誰が100年前、200年前の人が考えていたことを正確に伝えたと証明するのか。それが一体どのような意味があるのか。そういう人に限って、「やはり生演奏でなければ」などとレコードや映画・ビデオなどを軽蔑する。鑑賞活動における創造性について考えてもみないのである。問題を簡潔にするために、鑑賞活動における創造性は芸術活動をしている人の創造性とは切り離しておいた方がいい。複製の印刷物であろうと、レコードであろうと人は感動する。そのことは何人も阻止することは出来ない。次元が低かろうと、その人にとって「これまでにない感動」であれば、その人にとって創造的体験だと私は考える。これは個人のレベルでの価値観で創造性を捉えている。それに比べてこれまで私が問題にしてきている「創造性」は社会における「芸術家の機能」と言う立場でいる。社会を前進させるための「創造力」と言う視点で考えていく時、「過去の時代」「過去の時代の考え方」「過去の時代の表現法」などは、それがどのように素晴らしいものであろうと、再現するのは学問的意味はあっても芸術活動とは一線を画するべきであろう。芸術家としては「再現しようとすること」など恥ずかしいことだと感じるべきなのである。他の人の論文を、自分の文章の中に平気で組み入れることと同等なことだと考えればいい。「作曲者」と「譜面」と「演奏者」の関係を「創造性」という視点で捉え直して十分検討して欲しいところである。簡単に結論的を言ってしまえば「譜面」はその造られた時代において「創造的」であった。その「譜面」を刺激物、表現の出発点として、現代の考え方で捉えて表現するのが「演奏者」という「創造的芸術家」の仕事なのである。では、絵画や彫塑の世界はどうであろうか。多くの公募展では、まだまだ「印象派もどき」や「フォービズムもどき」が跋扈し、画廊では「抽象絵画様式」や「アクションペインティングの成れの果て」が現代絵画を主張している。50年前の前衛の様式を真似たところで決して「現代の前衛」にはなり得ない。「抽象絵画」という様式は50年も昔確立されたもので、決して新しいものではない。また、この様式で表現することは人間の歴史の中で何度となく出現していることでもあるのだ。イスラム教寺院で、江戸の小紋でその好例を見ることができる。また「音楽」の基本的な表現は「抽象」である。だから「抽象的表現」が新しい表現様式などと考えない方がいい。20世紀後半に出現した「抽象絵画」の意味は、その様式ではなく、その精神が、考え方が創造的であったのだ。何となく、ものの形を再現しなければ「抽象画」になり、それが前衛だなんて主張すべきではない。繰り返しになるが、表現で重要なことは決してスタイルではなく、それに至る精神の問題なのである。 2010.6.27

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