こらむ 111   人間のなすべき仕事 4

風景が美しい、花が美しいといってそれをそもまま写し描いたり、写真で撮った時、それが果たしてアートと言えるか。美しいと感動したものを永遠不変のものとして残し、多くの人に伝え、感動を分かち合いたい、という考えでこのような表現をしてきた人は多く、現在でもまだまだ減少する気配もない。特に写真においては「リアリズム病」が相変わらず蔓延っており、「写真には人間の手を加えるべきではない」などと今でも本気で主張するお偉いさんも現存する。写真は人間の造りものであり、大自然の一部を「切り取る」とこらから写真表現は始まる。光を化学変化を起こさせてフィルム上に画像を定着したり、印画紙に写したり、全て人間の判断で、調節している。暗室ワークとはそういうもので、決して「自然」ではない。ただ写したものが出来るだけ自然ぽくありたいというだけの話である。自然の良さを自然以上に表現しようとするなら解るが、自然に従順でなければリアルでないという考えは頂けない。「空間の大自然」を「平面に写し撮る」ことにおけるリアリズムとはどのように考えているのだろうか。絵画においてはギリシャ時代のプラトンがその虚偽について述べている。アートは人間の造りもであることが前提である。だから「人間のなすべき仕事」が重要なのである。アートは純正の「人間製品」であり、自然の写しでも、過去の偉大な作家の模造品造りでもない。19世紀末から20世紀初頭に掛けてクールベという画家がいた。「新しいリアリスム」を掲げて一つの流れを造ったと記録されている。海の波や、岬など写実的に描いた作品が名作といって日本人でさえ教科書や画集などで見知っている。しかし彼にはお抱えの写真師がおり、名作の元になった写真も残されていることはあまり知られていない。当時まだ目新しい「写真」の出現に対応て、表現したい風景を写真に撮らせ、資料として活用するなどなかなかのしたたか者であったろう。ともあれ彼の作品は私の判断では「アート」である。何故なら彼は必死に写真と闘い、クールベという人間の手で、写真以上の自然を表現しているからである。油絵という技法で、人間の視覚に置き換えた画面にしている。カメラという新参者に恐怖を感じながら、それをどのようにして凌駕するかを必死に考え、工夫したに違いない。その生き様までが画面から感じられるのである。花が美しいといってシャッターを切ればアートになると考えないで欲しい。人がそれを「ああ、きれいですね。」と共感してもである。私はそれを「記録」として区別している。事件現場がどのように迫力があるとしてもそれを写したものは「記録」である。その事件に対して「私はこう考える」という視点が入って少しアートに近づく。「私はこう表現する」という部分が重要なのである。その人固有の視点や人間固有の表現がアートの条件である。どんなにかわいい猫の写真であろうと心暖まる家族写真であろうと、前人未到の奥地の写真であろうと、それをそのまま写したものは私の判断は「記録写真」で文化遺産としての意味は認めるが「芸術」の周辺のものだという考えである。対象に対して、表現に対して、その捉え方が、表現の仕方が創造的であるか、個性的であるかが私の価値基準なのである。             2010.6.22

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