こらむ 108   人間のなすべき仕事 1

昨日の「画廊散策」を書いているうちに意識が明快になってきた。これまでの画家がエネルギーを費やしてきた制作過程の中でデジタルによって効率化できる作業がある筈である。もちろんデジタルアートとして独立した分野も成立する。丁度絵具のチューブが開発されたり、写真が開発された時代に絵画の様相が変化した以上に、絵画に対する考え方や表現スタイルや画家の在り方まで、劇的な変化があっても不思議はないデジタル表現の出現なのに、状況は旧態依然な状況である。これは開発がそのまま経済効果と繋がる世界と、過去を守ろうとする勢力が根強い世界とのスピードの差は歴然たるものがある。それにしても時代の最先端を行き、時代を切り開き、創造的牽引者であるべきアーティストが時代の足かせとなっていることもまた、今に始まったことではない繰り返しのドラマではある。これは過去の芸術様式が生み出した「芸術修練法」があり、それが永遠不変のものと勘違いするところにそもそもの発端がある。芸術様式は変化すべきもになのだから芸術修練法もその変化に対応しなければならない。表現すべき対象をしっかりと見つめることで対象との関わりを深め、それを描写する修練こそ絵画表現の王道だと信じていた人にとって「カメラ」はどのようなものであったのだろうか。今だに絵画の基礎的学習は石膏デッサンだと信じて疑わない人が何と多いことか。ここは創造的であるべきアートの世界である。21世紀の人間がなぜ19世紀の学習法を後生大事に考えるの不思議でならない。現代の人間にとって何が一番必要で、何を過去の垢として洗い流さなければならないか、真剣に考え直さなければならない。そのことの欠如のために多くの「真剣な浪費」がなされ続けている。現代の人間にとって表現しなければならないのは江戸時代や明治時代(印象派やマチス・ピカソの時代)と同じであるはずはない。それ以前の学習法を(人間が作ったカメラやコンピュータ以下のこと)真剣に学習して何になるというのだろうか。ここでは「絵画とは何か」「芸術的表現とは何か」という問いの前に、「絵画とはこういうの」という先入観が、無意識に、しかも強固に存在する。芸術学習の基礎はそのような先入観の打破から始まる筈である。カメラやコンピュータはわれわれにとって単なる道具であり、奴隷の様なものである。思考においても、労力においても彼らに任せるものは任せ、もっとも人間的な活動に意識やエネルギーを集中すべきである、というのが私の考えである。これまで絵画表現の中心と考えられていた技術や思考・目標なども根底から再検討するべきであることをコンピュータは我々人間に促しているである。カメラの出現が絵画の意味を変えた以上にコンピュータの出現は絵画表現の意味や内容を劇的に変化をもたらすものなのである。        2010.6.19

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