こらむ 101「視覚言語教育」について

教育が狂っている。教育学者は何を考えている。文部科学省は・・・と怒りくるっている、私なのだが、これに関わっている時間がないと避けてきている私も狂っている。「学力が低下した」と大騒ぎ。今度は国際的な人間の育成を目指してと、「英語科」の導入はすいすいと行なっている。学校で子どもが学習出来る時間には限度があるのでどこかを削っているわけで、これよりあちらの方が大切、というきちんとした種分けが大切なのに、軽薄な感覚的価値基準で日本の教育はねじ曲げられている。恐ろしいことだが誰も言い出さない。先ず人間の能力を考える時、動物と比較してみると良い。動物にはないもの、それは文字や記号であり、それによって人間の文化が発達してきた。しかしそれが中心になり過ぎ人間の能力はますます低下してきている。これを教育で補おうという視点は日本にはほとんどない。随分前から指摘をし、主張してきたがほとんど無視をされ続けている。それは「ノンバーバル・コミュニケーション(非言語伝達)」の問題である。日本の教育の中で言語・記号の教育は在り、大切にされているが、非言語伝達の重要性についてはまったく見向きもしない。動物はこの「非言語」の社会で生きている。動物にはあって人間には無い、あるいは退化しまった多くの能力的遺産があることを知るべきである。このような異なった視点で、教育的、あるいは人類文化的に考えた時「視覚言語」という言葉が浮上する。それは文字や記号で伝達・記録する代わりに、色や形、イメージで表現・伝達・記録する機能を指す。それは現代の人間社会に充満しているにも関わらずそれを「より正常な」「より正確な」「より濃密な」コミュイケーションの発達に位置づけようという研究も、ましては教育も無い。テレビや携帯電話、そしてコンピュータの発達でもたらされている視覚言語状況にほとんど対応出来ていない、対応しようともしていない現状を嘆く。映像やマンガについての専門学校はあるが、その中心は表現技術の伝達であり、修練である。それらは全て表現する側の教育である。「視覚言語」は万人のものであり、人類の大切な遺産であり、今や「言語伝達」を遥かに越える量で社会に席巻している状況にも関わらず、ほとんど野放し状態なのである。発信する側の技術的教育はあっても、受ける側の教育は皆無である。私がその危険性を訴えたのが1970年代のことなのだが世の中は完全無視、私も世をすねてチャンチャン、おしまい。その頃夢見ていた状況は、携帯電話、コンピュータの発達により現実のものとなっている。誰もが「視覚言語」の発信者、視覚言語の表現者になりうる状況が現実のものとなっている。しかしその状況についても教育界では関心はなさそうで、ほとんど無視、この野放し状態は文化史的に見てもかなりの損失だろうと思う。この危機的状況をなんとか突破する糸口を付けるのが小・中学校における美術教育であるという浅はかな夢を持っていた。私は、写真や印刷物・映画やテレビがもたらす素晴らしい文化と恐ろしい害毒を制御出来る人間を育てることが、普通教育の使命だと考えていたのである。自分の残された人生の中でとてもやれる仕事ではないと見切りを付けて、今は自分のデジタル表現に集中している毎日である。しかしやり残した仕事への未練断ちがたく、この文を書いている。美術教育についてまだまだ書かねばならぬことが山積している。それはまた明日への続きとする。  2010.6.11

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